「Story」vol.15 田端健児 ナインドット・スポーツ塾 塾長元ミズノトラッククラブアトランタ/シドニー五輪 1600mリレー/個人400m走・1600mリレー代表日本大学卒 1993年度奨学生(OB)
「オリンピックには魔物が棲む」 使い古された言葉だが、これまで数え切れないほどのアスリートたちが、オリンピックの舞台で思いがけないアクシデントに見舞われ、栄光と悲劇のドラマを生み出してきた。 長崎の離島である五島で育ち、オリンピックに挑戦し続けアトランタ五輪(1996)とシドニー五輪(2000)に2大会連続で出場した田端健児(タバタ・ケンジ)もまた、魔物に逢ってしまった一人だ。
僕は全力で走ることしか 田端は1996年の夏、1600メートルリレー(4x400m)のアンカーとしてアトランタ五輪のトラックを踏む。チームは予選ラウンドで順調な走りをみせ、3分02秒82の好記録で準決勝への切符を手に入れた。しかし、ここで予期せぬトラブルの余波に見舞われてしまう。 決勝進出が確実視されていた400メートルリレー(4x100m)チームが失格処分を受けてまさかの予選敗退。メダルへの挑戦の道が閉ざされてしまったのだ。 日本チームは急遽400メートルリレーのエース格だった伊東浩司を1600メートルリレーの準決勝に出場させるという異例の再編成を断行。その犠牲になったのは田端であった。 アトランタのスタジアムには、遥か遠い故郷の五島から両親や市長を含めた20人近い人々が訪れていたそうだ。 「僕のために応援団が来てくれている。どう顔向けしていいのかもわかりませんでした。携帯電話も無かったので、外されたことを伝えることもできず。いきなり僕の姿が消えたので何が起こったのかわからなかったと思います。」 田端不在のチームは、準決勝は3分01秒92、決勝で今でも日本記録として残る3分00秒76で5位入賞。田端は観客席から喜ぶ4人のメンバーたちの姿を見ていた。 「決勝進出の可能性を高めるために伊東さんを起用したのは理解できます」 とはいえ、それは理屈の上でのことだろう。決勝進出へのタイムは3分02秒55、田端が出走していても決勝に進む可能性は十分にあったのかもしれない。
時事 オリンピックが終わって日本に帰国してから、田端の心の中にはなんとも言えないやりきれなさが残り、不完全燃焼な状態で1年間は全く何もする気が起きないほどだったという。 だが、オリンピックで味わった悔しさはオリンピックの舞台の上で晴らすしかない。 「初めてのオリンピックだったアトランタでは、メンバーに選ばれたことで満足してしまっていた部分もありましたし、準決勝までどこか浮かれていたところもありました。アトランタ出場に向けての練習では、それほど苦しんだ記憶もありませんでしたが、シドニーのときは本当に追い込んで、苦しんで苦しんで、誰にも負けないくらいの練習を積み自信を持って臨みました」 2000年のシドニー五輪に照準を合わせた田端は、1600mリレーのメンバーに選ばれただけでなく、個人種目である400メートル走の出場権をも獲得。一次予選で敗退したが、リレーの前に本番の舞台を全力で走れたのは良い前哨戦にもなった。 その1週間後、1600mリレーの一次予選4組を1位で通過し、準決勝へと駒を進める。チームは前回に続けての入賞を目標に、体力を温存しながら確実に決勝ラウンドへと臨んだ。 田端自身はアトランタで終ぞ立つことができなかった準決勝の舞台。決勝進出を確実にするには3位以内に入らなければならない。
田端は第3走者としてバトンが届くのを待っていた。 日本の第1走者は6位でバトンを繋ぎ、第2走者が順位を5位に上げる。バックストレートからコーナーに入り、続けて4位の選手をイン側から抜き去ろうとした瞬間に、再びオリンピックの魔物がその怪貌を顕にした。 追い上げて並んだアウト側の選手とバトンが接触、必死に落としたバトンを拾い上げたときには、前を走るランナーたちから大きく遅れ、順位を最下位に落としてしまっていた。 田端がバトンを手にしたときのトップとの距離はその差およそ100メートル。前の選手に追いつくことすら絶望的だ。渇望し続けた舞台で、2度とも自身の力で勝負することが叶わずに潰えた夢のバトンを、全力疾走し400メートル先のアンカーへと繋いだ田端の胸中はいかばかりだったろう。 「バトンを落とした瞬間に、決勝進出の夢が破れたと理解しました。最下位でバトンを受け取り、ここからはどう頑張っても挽回できない。僕は全力で走ることしかできませんでした」
AFP=時事 2度の五輪の舞台は苦渋に満ちたものだったが、田端はチャレンジすることを止めなかった。決まれば自身3度目となる2004年のアテネ五輪を目標に、厳しいトレーニングを積んだ。しかし― 五輪の代表選考に大きく影響する日本選手権400メートル走に出場した田端は、順調に決勝まで進出。 レースでは若手選手と接触しバランスを崩しながらも結果は5位。1600mリレーのメンバーは補欠を含め6人まで選ばれるので、過去の実績も考慮すれば田端の選出は妥当といえるものだろう。だが、選考委員会は400メートル走に出場しなかった200メートルの選手と、400メートル決勝で田端と接触し7位に終わった大学生選手を選んだ。 田端健児の五輪への挑戦は、ここで思いもよらぬ結末を迎えた。
努力の大切さを伝えていきたい 当時の田端のオリンピックへの想いが、複雑なものであっただろうことは想像に難くない。それでも彼は結果を結果として受け入れ、正々堂々オリンピアンとして戦って散った誇りを胸に、次のステージで挑戦を続けている。 オリンピックで掴んだ「経験値」は他では得ることができないものだと言う。 「オリンピック自体には悔しい思い出しかないのですが、その悔しさが次のステップに進む原動力となっています。その経験をできたのは、自分の財産ですね。仮にアトランタで5位に入賞して競技を続けていても、シドニーで出られなかったかもしれない。悔しい経験がシドニーに繋がった。あの悔しい経験があったから、誰よりも努力できた。最高峰と呼ばれる場所での経験だったので、余計に悔しかった」 現在の田端は故郷の長崎県に戻り、自らの脚で叶えることができなかったオリンピックへの夢を次世代の子どもたちに託すべく、佐世保に本拠地を構えスポーツ塾を開校。長崎県内に留まらず九州を中心に、子どもたちに運動の楽しさと大切さを伝えている。 子どもたちの全員がオリンピックを目指せるだけのエリート・アスリートではないが、皆にいずれかの形ででもオリンピックに関わってもらいたいと田端は願っている。 「理想は全ての子どもたちがオリンピックとかスポーツに興味を持って、身体を動かしてもらいたい。スポーツに限らず音楽とか絵とか芸術部分でも、努力は必要だと思います。スポーツは分かりやすい例で、オリンピックに出るために、人に感動を与えるために、これくらいの努力をしてきたんだよとスポーツ選手が伝えることで、それを聞いた子供たちが努力をすれば、人を感動させられるんだと知ることができる。人を感動させるのは、音楽とか美術などでも同じなので、その分野で頑張って努力をして、人を感動させて欲しい。努力の大切さを伝えていきたいですね」
自分で考えて、行動して、やり遂げた 「小学生の頃はリレーの選手にも選ばれないほどに走るのが遅い子供でした」と言う田端は天性の才能ではなく、努力でオリンピック選手の座を勝ち取った。 「きっかけはかけっこで同じ年の女の子に負けたのが悔しくって練習するようになりました」 そんな少年が2度もオリンピックに出場するなんて出来すぎたフィクションのような話しだが、「子どもたちには作り話でもなんでもない実話を伝えることで、努力すれば無理だと思えた道が開かれることもある」という。 「厳しい言い方になりますが、もの凄く努力すれば誰もがオリンピックに出られたり、日本一になれる訳ではありません。努力の仕方があると思います。ただひたすら走れば速くなれるのではなく、なにが必要なのかを考えて努力する。自分の経験から努力の仕方も教えていく必要はありますね。効率のよくない努力もありますからね。好きという気持ちは大切ですが、やらなくていい努力と、本当にやらなくてはいけない努力があるので、その見極めを自分でするのも大切ですし、人から言われて考えて動くことも大事です。どの分野においても、必ずしも目標が達成できる世界ではないので、そういった部分も含めて経験者として伝えていきたいです」
田端自身も効率の悪い努力をしていた時期があった。中学生のときに、練習が終わってから坂をダッシュで登る練習を繰り返していた。 「今思えば、坂道でのダッシュは効率が良くなかったと思います。しかし、当時の僕は自分で決めたことをやり遂げました。そこは褒めてあげたい。自分で決めたことをやり通すことは大切ですね。やり方は間違っていたかもしれないけど、自分で考えて、行動して、やり遂げた力は、その後の人生にも良い影響を与えてくれました」 中学生までは平凡な選手だった田端は、地道な努力を重ねることで少しずつ速くなり、︎上五島高校で頭角を現し3年生でインターハイに出場。その活躍が認められて、大学陸上界では実力派の選手が集う日本大学に進学する。トップレベルで揉まれながら急成長を遂げた。 「オリンピックに行きたいという目標が出来て、近くにいる選手の姿を見ながら、オリンピックに行くために必要なものを知ることができました。これくらいの努力が必要なんだと分かり、俺もそのくらいの努力をしてみようという気持ちになれた環境には感謝しています」 田端は、子どもたちに何か伝えたいことがあるときには、話す前にまず彼らと共にかけっこをするそうだ。 「小学生までならば、今でも50メートル走ではダントツの差を付けられます。競争して走ることで、子どもたちから『この人は速いんだ』と思ってもらうことで、心と耳も開いてもらいます。いつの時代でも速く走れる人は子どもたちから尊敬の目で見られますから。それは子どもたちの目の色が変わるのを見れば伝わってきます」 「その後に、こうやって走れば速く走れるんだよと走り方を教えます。子どもたち自身が速く走れたと感じてくれるんですね。最後に私の人生を語ると、子どもたちは興味津々で聞いてくれます。その場だけでなく、その日に伝えたことをずっと続けて欲しいとは思います」 九州の各地を巡りながらも、一度の訪問で伝えられることには限りがある。年に1度だけでも過去に訪れたことのある地へ再訪することで、子どもたちに運動と努力の大切さを説き続けていきたいという。 「とにかく身体を動かして欲しい。スポーツが苦手な子もいますが、そういう子も含めて、身体を動かすことは健康面でも大切なので、まずは少しでも身体を動かして欲しい。そのためにスポーツの楽しさを伝えたい。色んな学校を回れるのもオリンピアンだからこそ」
「オリンピックには魔物が棲む」 使い古された言葉だが、誰の人生のどのようなシーンにも魔物は潜んでいる。だが、そのことを呪い続ければ、いつか自らが誰かにとっての魔物になってしまうだろう。 田端はオリンピックの舞台では涙を飲んだが、決して魔物に負けはしなかった。むしろその経験が人生を豊かにしたのかも知れない。彼が発信し続ける意志を継承する子らは、いずれ世界を問わず活躍を始め、また後の世代に繋がれていく。田端のバトンはリレーしている。
Other Report 「Story」vol.17 花尾恭輔駒澤大学 経済学部商学科 3年 陸上競技部2020年度奨学生「My graduation 2020 #2」奨学生(2020年3月卒業)からのメッセージ「My graduation 2020 #1」奨学生(2020年3月卒業)からのメッセージ