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元ヤクルト本社社長、名誉会長。 大正11年、九州最西端の島である長崎県南松浦郡三井楽町(現五島市)に5人兄弟の3男として生まれる。幼少の頃に教職にあった父を亡くし、経済的に苦しい家庭環境と太平洋戦争にまつわる社会状況から、思うような就学が叶わぬ青年期を過ごした。 戦後、ヤクルト事業に創成期より参画。母子家庭にあった自身の経験から、女性が就業し経済活動に参加する事の意義と活躍の重要性を説き、女性販売員による独自の宅配システムを確立する。逆境に屈することを好まず、常に未来を見据えた先見性と独創的な発想力、卓越した実行力を発揮し、国内のみならず海外への販路拡大など同社グループの繁栄を牽引。その礎を築いた。また、プロ野球の東京ヤクルトスワローズ初代オーナーを務め、ひいては日本国内におけるプロスポーツ発展にも広く貢献した。 一方では郷里長崎の経済発展にも力を注いでいた。国内初の海上空港である長崎空港の開港に尽力すると共に、長崎新聞社社長、長崎文化放送では会長職を務め地域経済の活性化に貢献する。実業以外に於いても「人材育成こそが将来の社会発展の要である」との考えから、高校や大学に進学を希望する若者へ積極的な姿勢で支援を行った。 |
略歴
大正11年7月15日 | 長崎県、五島列島 三井楽町(現五島市)に生まれる |
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昭和20年 | 法政大学専門部、中退 |
昭和28年 | 長崎にてヤクルト事業に参加 |
昭和29年 | 上京。東京都八王子市にてヤクルトの製造を開始 |
昭和31年 | 関東ヤクルト製造株式会社(現松尚株式会社)設立 代表取締役社長に就任 |
北海道ヤクルト製造株式会社設立 代表取締役社長に就任 | |
昭和32年 | 株式会社ヤクルト本社 取締役に就任 |
昭和37年 | 台湾ヤクルト 取締役副社長に就任 |
昭和38年 | 株式会社ヤクルト本社 専務取締役に就任 |
昭和41年 | ブラジルヤクルト 代表取締役社長に就任 |
長崎空港ビルディング株式会社 取締役に就任 | |
昭和43年 | 株式会社サンケイアトムズ(現株式会社ヤクルト球団)の経営を継承(代表取締役社長に就任) |
昭和44年 | 株式会社ヤクルト本社 代表取締役副社長に就任 |
球団オーナーに就任 | |
ヤクルト商事株式会社 代表取締役社長に就任 | |
昭和45年 | 株式会社ヤクルト本社 代表取締役社長に就任 |
ブラジル連邦共和国「ペドロ・アルバレス・カブラン章」を受章 | |
昭和46年 | ブラジル連邦共和国サンフランシスコ法科大「グラン・クルス級サンフランシスコ・デ・アシス大章」を受章 |
ブラジル連邦共和国サンパウロ大学「グラン・クルス章」を受章 | |
昭和47年 | 長崎空港ビルディング株式会社 代表取締役社長に就任 |
株式会社長崎新聞社 取締役に就任 | |
昭和51年 | 紺綬褒章を受章 |
ブラジル連邦共和国エルネスト・ガイゼル大統領より「クルゼイロ・スル章」を受章 | |
昭和52年 | ブラジル連邦共和国「サンパウロ名誉市民章」を受章 |
株式会社長崎新聞社 代表取締役社長に就任 | |
昭和53年 | 株式会社ヤクルト本社 代表取締役会長兼社長に就任 |
昭和54年 | 株式会社ヤクルト本社 代表取締役会長に就任 |
株式会社長崎新聞社 取締役会長に就任 | |
長崎文化放送株式会社 取締役会長に就任 | |
平成3年 | 株式会社ヤクルト本社 名誉会長に就任 |
財団法人松園尚己記念財団を設立 | |
平成5年 | 長崎空港ビルディング株式会社 取締役会長に就任 |
長崎文化放送株式会社 名誉会長に就任 | |
平成6年12月15日 | 72歳で永眠 |
平成7年 | 生前の功績に対し、従四位に叙せられ、「勲三等旭日中綬章」を受章 |
平成23年 | 公益法人へ移行し公益財団法人松園尚己記念財団となる |