「選手」であることを許される期間というのは一体どれくらいだろう。 スポーツに限った話ではないが、一アスリートとしてならばシルバー世代まで現役であり続けることは可能だ。しかし現実には進学や就職などライフステージの転換を機に引退するアスリートは少なくないし、勝利を至上目的とする集団に所属する選手が直面する生存競争は、年齢を重ねるごとに厳しさを増し篩(ふるい)の目は大きくなっていく。 陸上を例に取ってみると、中学生では約20万人の選手がいるのに、高校生になると約11万人に半減、大学生は約2万人の選ばれたランナーだけが頂きへ挑戦し続けることを許される(日本陸上競技連盟 2017年度登録会員数)。さらにプロや社会人(実業団)のステージでも「選手」であり続けるとなれば、ごく限られたエリートだけの特権とすら感じられる。 幼かった頃、単純に「楽しい」「好き」だから始めたスポーツ。年齢を重ねるに連れプレーする理由と意味を自らに問うようになり、納得のいくアンサーを獲得出来ずに懊悩するアスリートは少なくない。常在戦場、日頃から勝利を目指し続けることを求められるプロ・実業団チームに身を置く「選手」などは常人の想像を絶するものだ。
日本の陸上長距離界に新風を巻き起こしているMHPS(三菱日立パワーシステムズ)マラソン部に所属する的野遼大は、自らを「平凡な選手」と呼ぶが、努力と諦めない心を持ち続けることで、社会人になってからも第一線の競技ランナーであり続けている。
自分の目標が何であるかを明確に 多くのランナーがそうであるように、的野が陸上を続けてきた原動力は「楽しい」という気持ち。 「うちは3人兄弟で、上に兄と姉がいて先に2人とも小学校の陸上クラブに入っていたので、じゃあ末っ子の僕もやってみないか?という両親の勧めで始めました。子供の頃の僕はポッチャリとした体型だったので、走ることはあまり好きではなかったです。友達と一緒に野球やサッカーをして遊ぶ方が楽しくて、陸上クラブにはよく遅刻していました。でも、練習の最後に行われるリレーだけは競争することが楽しくて、これだけを目的にクラブに行っていました」 陸上を続けることで体型も変わっていき、小学校3年生から走り始めて5年生のときには手足が伸びると共に、父親のアドバイスで腹筋・背筋・腕立て伏せを日課にしていたこともあり、スリムな陸上体型になっていたという。 「身体つきが変わってきて、気付いたらそれまで勝てなかったクラブの友達に勝てるようになってきたんですね。勝つ喜びを味わうようになってから、走ることが楽しくなってきました。走るのが楽しくなってくると、走ることが好きになり、練習で手を抜かないようになりました。冬になるとマラソン大会の練習とかで長い距離を走ることも多くなるのですが、皆が話しながらゆっくりと走っている中、僕はひたすら全力で走り続けていました」
「もともとは短距離が好きだったのですが、100メートルでは地元の中学校の部内で2・3番手という選手で、一番を求めてやっていたのにこのままじゃ全国で一番になれないなと思って。逃げというのもあったのかも知れませんが、コーチの勧めもあって距離を伸ばしていきました」 地道な努力と中距離への転向が実を結び、中学校時代には全日本中学校選手権で800メートル(1分56秒79)と1500メートル(4分01秒61)の二冠に輝く。高校では世界ユース陸上に3000mの日本代表として出場。決勝まで進み13位(8分29秒09)で初めての世界大会を終えるも続くその翌年、アジアジュニア選手権の1500メートル(3分58秒28)で銀メダルを獲得する。 「選ばれたときは日本代表とは言われましたが、実感はありませんでした。当時はジュニア世代の国際大会があることも知らず、高校はインターハイで終わりだと思っていたので、世界の舞台があることを知れたのも良かったです。 © 2019 長崎新聞社
この頃の的野は自らが称する「平凡な選手」などではなく、間違いなく当時の国内ジュニア世代を代表するエリートランナーである。それでも、高校時代は「1500メートルと5000メートルでの長崎県記録の更新と全国高校駅伝での入賞」を目標に掲げて頑張ってきたが、「全部達成はできませんでした」と苦笑いしながら当時を振り返る。 「常日頃から自分の目標が何であるかを明確にするようにとは高校の恩師から言われていました。当時は練習日誌を毎日書いていましたが、そこで目標をはっきりと書いて、それを思い続けて練習を続けてきました。理想は高く持ってしまうもので、なかなか達成するのは難しいですが、その目標に向かって努力を続けてきたことは、今振り返ってみても無駄ではありませんでした。(目標を)達成はできませんでしたが、大学に向けてしっかりと土台を築けた3年間でした」
プライドが、僕のやる気を失わせていた 「小さなときから、箱根駅伝に出場したいという夢を持っていました」 中学、高校での実績が評価されて、大学は順天堂大学に進学。1年生で箱根駅伝のメンバーに選ばれたが、的野が憧れの箱根を走ったのは、この一度切りとなってしまう。大学での陸上生活はケガに悩まされ続けた4年間だった。 「箱根駅伝には1年生から4年連続で出場、4年生で区間賞を取って総合優勝もするという夢を持って大学に入りました。ケガが増えて、気持ち的に病む部分もあり、なかなかうまく行かない4年間でしたが、その中でも僕の能力を信じて、4年間見放さずに面倒を見てくださった監督とコーチ、一緒に頑張ろうと言ってくれたチームの仲間がいてくれたからこそ今の自分があります。ケガが多かったので、4年間これをやってきたと自信を持ったことは言えませんが、続けて良かったなとは思います。」 © 2019 長崎新聞社
「中学校から高校3年生まで順調に全国大会でも勝ったり、入賞を続けてきて成績は残してきたりしたので、大学でもという思いはありましたが、僕の中にあったプライドを一度捨てました。高校時代に僕よりも遅かった選手たちが伸びて行く中で、チームメートが活躍する姿を喜ぶ反面、悔しさもあって、チームの活躍を素直に喜べない自分もいました。そういったいらないプライドが、僕のやる気を失わせていたことに気づき、ゼロからスタートしようという気持ちで改めて陸上に向かい合っていきました」 中学、高校時代に勝ち取ってきたエリートランナーのプライドを捨てて、「平凡な選手」として再スタートを切ることを決意し、不完全燃焼だった大学時代の悔しさを晴らすためにも、卒業後は地元、長崎県に拠点を置くMHPSで陸上を続ける道を選んだ。 「ケガも多く、成績も残せなかったので、なかなか大学卒業前に実業団チームから声がかかることもなかったのですが、1度しか箱根で走る姿を見せることができずに、親孝行をできていないなというのもあって。ずっと応援してきてくれた両親に恩返しをするなら、普通に就職するのではなく、陸上を1日でも1年でも長く続けることだと思いました。」 自分の勝利という目的のために走っていた的野は、今はサポートしてくれる人たちへの感謝の気持ちも胸に走っている。 「これはあとから聞いて知ったのですが、中学のときから母親は料理に気を配ってくれたり、父も単身赴任をする中で週末には僕の様子を見に帰って来てくれたりとか、小さいときからサポートは受けていたと、そういう話を聞くと改めて実感しています。走りの結果で恩返しをしたいという気持ちはとても強いです」
もう一度、日の丸を付けて走りたい トラックで競う相手は己自身であり、それは孤独な戦いだ。だからこそ、トラックで好成績を残すためには、両親を始め、監督やコーチ、チームメートら周囲からのサポートが必要不可欠だ。 「高校に進学して、家を出てから両親の支えを感じるようになりました。寮生活をしていく中で、洗濯、掃除、食事など日常生活から支えてくれていて、相談事に関しても電話で伝えるよりも、面と向かって話した方が安心もする。そんな経験から家族の存在の大きさと大切さを改めて感じました。大学でも1年生で箱根に出させてもらって、4年生をはじめ上級生が朝早くから支度とかをしてくださって、サポートしてくださる方々の大切さを身を持って知ることができました」 的野の両親は彼が走る駅伝を応援することを楽しみにしており、「(MHPSに入って)1・2年目は走ることができなくても、両親は応援に来てくれていました」と言うほどに熱心に声援を送る。「3・4年目はしっかり走ることができて、両親が喜んでいる顔を見ると、走り続けて良かったなと思いました」 「大学は4年間という決められた時間しか与えられませんけど、実業団は自分でモチベーションを保っていかないと先は長くない。社会人は自分自身がどこに目標を置くのかが最大のモチベーションになってくると思います」
実業団で5年目を迎える的野に目標を尋ねると、「トラック種目でもう一度、日の丸を付けて走りたい」という力強い答えが帰ってきた。それまでは穏やかな目で話してきた的野が、この瞬間だけ勝負師の目になり、強い意思が伝わってきた。 MHPSマラソン部には昨年8月のアジア大会男子マラソンで金メダルを獲得した井上大仁選手を筆頭に、松村康平選手、主将の木滑良選手と日本長距離界を担う逸材が並び立ち、そんなレベルの高い中で揉まれることで、的野のパフォーマンスも上がってきている。昨年9月に行われた全日本実業団選手権で5000m(13分49秒11)、10月の長崎ナイター記録会で10000m(28分38秒55)と、それぞれ自己ベストタイムを更新。調子は上向きで、今後はさらなる記録更新が期待出来るだろう。 的野は自分のためだけではなく、サポートしてくれる周囲への感謝の気持ちを込めて走り続ける。
日はまた昇る。 エリートから一転、返り咲きのランナーが、もう一度日の丸を胸にスタジアムのトラックを疾走する姿を思い描いてみた。栄光と挫折のその先を描いたそれは決して夢物語などではなく、十分に実現可能なノンフィクション・ドラマだ。挫折を味わいながら尚も諦めずに走り続けた的野だからこそ追いかけることが叶った、夢への特権だ。
Other Report 「Story」vol.17 花尾恭輔駒澤大学 経済学部商学科 3年 陸上競技部2020年度奨学生「My graduation 2020 #2」奨学生(2020年3月卒業)からのメッセージ「My graduation 2020 #1」奨学生(2020年3月卒業)からのメッセージ