「Story」vol.14 松橋優

大分トリニータ - ヴァンフォーレ甲府
元サッカー日本代表
早稲田大学卒 2003年度奨学生(OB)
 ヴァンフォーレ甲府のサイドバック、松橋優(マツハシ・マサル)は豊富な運動量を誇る日本サッカー界屈指のスプリンターだ。
 2017シーズンのJ1リーグ戦で1試合36回以上のスプリント(時速24㎞で10m以上のダッシュ)を複数記録した者は、300を超える選手中5人しか居らず、松橋はその1人。同シーズンのJ1の試合平均スプリント数は1選手辺り15.5回、まさに2選手分以上の全力疾走を繰り返したことになる。

 甲府に移って10年、節目の2018シーズンはJリーグ通算200試合出場を達成した。

自分のストロングポイントで勝負を続けていく

 松橋のスプリント機会が多い理由は、彼のポジションとプレースタイルにある。ディフェンダーながら積極的に攻撃参加するサイドバックは、ゲームに出場する選手中、最もチームへの献身が求められるポジションの一つだ。
 よく目にするのは、自陣の最後列からサイドを駆け上がって中盤の選手からパスを受けたら敵陣深く切り込みゴール前にクロスを上げ、攻撃が失敗すると味方のディフェンスラインまで全速力で戻って守りに付き、ボールを奪ったらまたサイドを駆け上がる、という動きだろう。反対側のサイドにボールがあっても攻撃には参加するので、常にピッチを縦に動き回ることになるサイドバックの選手は、一見徒労にすら見える数十メートルのダッシュを何度も繰り返す。
 そんな厳しいポジションを務める選手たちの中でも、ベテランながら松橋のタフネスは上位に在り続け、精度の高いクロスを武器として積極的に得点チャンスに絡んでいく攻撃的な姿勢を貫こうと、プロ生活12年が経った今も手を抜くことなくハードワークにチャレンジし続ける。
多分、自分はそこがなくなったら、必要とされなくなってしまうと感じています
現役を続ける限りはフィールドを縦横無尽に走ることを止めず、自分のストロングポイントで勝負を続けていく。当たり前のことのようだが、現実は奇なりだ。
ダッシュのタイムとか測定があるんですけど、そのときはビリの方なので、若い選手の方が速く走れます

 意外なことに、快速のスピードスターで鳴らした松橋の速力は、現在のヴァンフォーレにおいては下から数えた方が早いのだという。



 サッカーでは単純にスピードがアドバンテージに直結するとは限らない。ボールには触れなくとも、相手選手を釣り出して味方が仕事をするためのスペースを作り出したり、パスコースを塞いでボールを奪取するポイントへ誘導したり。プロのプレーにはどんな時でも戦術的な意味が求められる。試合中の松橋の走りが誰よりもスピードを感じさせるというのはつまり、試合終盤になろうと衰えない無尽のスタミナを頼りに、常に頭脳を休ませることなく90分間効果的な動きを続けているということに他ならない。これに振り回される相手は堪ったものではないだろう。
 若い頃はスピードやスタミナなど身体能力を武器に戦う選手であっても、年を経れば楽で効果的なテクニックや老練さをスタイルに取り込んでいく。しかし、松橋は頑なともいえるほどに己のプレースタイルを貫き通しているように見える。
国見時代から培ってきた走り込みが生きているのかな」と笑い「上下運動できることは自分の強みだとは昔から思っていましたし、そこを落とさずに続けることが今も自分に必要とされている役割だと思っています。試合に出て、走り続けて、走り負けずにきたことが自信にはなっています。若い子たちも自信を持つことができれば、もっと走れると思いますよ」と続けた。

やってみたい、チャレンジしてみたい

 国見高校以来フォワードとして活躍してきた松橋は早稲田大学に進学、プロ入り6年目までは相手ゴール前を主戦場にしてきた。そんな松橋に大きな転機が訪れたのは、甲府に来て4年目となる2012シーズン。後列への転向を打診された。
とある練習試合がたまたまケガ人が多かったタイミングで、サイドバックで出てくれないかと頼まれたのがきっかけでした。『なんで自分が』と思ったりして、少し不貞腐れもしました。ずっとフォワードで勝負してきていて、やったこともないディフェンダーに移れと言われて。もうフォワードの自分はチームにいらないのかとも考えてしまいました
 ポジションをコンバートしてから3~4ヶ月は葛藤の日々が続いたが、だんだんとサイドバックの面白さに目覚めていったという。
その練習試合での評価が良かったのか、ちょいちょいと試合でも使われるようになりました。で、攻撃と守備のどちらにも参加できる……あれ?楽しんでる自分がいる。自分のスピードを一番生かせる場所なのかもと考えるようになりまして。だんだんと葛藤が薄れていきました。やってみたい、チャレンジしてみたいと思うようになっていったんです

 松橋は学生時代に学んだことがプロでも生きていると言う。現代サッカーではフォワードも攻撃一辺倒ではなく、守備力も求められる。国見高校サッカー部時代には名将、小嶺忠敏監督(当時)に守備の重要性を叩き込まれ、早稲田大学でも守備もきちんとできるフォワードとして重宝された。
すんなりとディフェンスも対応できるようになったのは、学生時代の経験があるからです。過去にフォワードでプレーしていたからこそ、相手フォワードの考えや嫌がることも予測し易いので、自分が先手を取って守備ができるようになりました。相手が嫌がるところをカバーするとボールも奪えるようになり、楽しくなってきたんですよ

何事も継続しろと言われ続け

 幼い頃から2歳年上の兄、松橋章太(大分・神戸・熊本・長崎で活躍)の後を追いかけて、兄やその友達に混じって遊んでいたという。中学の部活動は県大会1回戦で敗退が決まってしまうチームだったが、陸上の200m走で全日本中学選手権3位に入賞した兄が国見高校サッカー部で活躍する姿を見て、自分も国見でサッカーをしたいという気持ちが芽生えた。そんな折、とある試合会場で思わぬ出会いがあったという。
まさか小嶺さんから声をかけていただけるとは思ってもいませんでした。チームの強さに関係なく、自分のプレーを評価してもらえたことはすごく嬉しかったですね
 憧れの国見高校に入部したが、最初の頃は練習に全く付いていけずに、レベルの差に戸惑った。
入学したときは底辺でした。まずは環境に慣れることから始め、技術的に足りないものは練習後の自主練で補うようにしました。ボールタッチがうまくなく、コーンドリブルにも苦戦していたほど。そこを1つ1つクリアしながら、ステップアップしていった感じです
 1年生のときから小嶺氏に「突っ込んで行け」と言われ続け、思い切りの良いプレーでチームに貢献するスタイルを身に着けた。それはプロになり、登録がディフェンダーになった今も変わらず、チャンスが訪れればゴールに絡もうとトップギアで疾走する。
 サッカー選手としての基礎を教え込み、プロとして長年活躍できるように育て、導いてくれたかつての恩師には「今の自分があるのも、あの方の力であり、彼のおかげ。出会っていなければ、プロにもなれずに長崎で普通に仕事をしていた」と、今でも感謝の気持ちを抱いている。「人間的にも大きく成長させてもらった」のだ。
何事も継続しろと言われ続けました。サッカーだけでなく勉強などもそうです。なんでも継続してやれば、できないこともできるようになると。あとは人としての礼儀なども教えていただきました
 小嶺氏は島原商業高校―国見高校での監督時代、指導者として偉業に偉業を重ねる音に聞こえた名伯楽であったが、根底には教育者としての哲学が流れていたという。教え子たちには、サッカー選手である前に一人前の人間として社会に出ていける、サッカーを通じた人間形成を行っていたそうだ。そんな小嶺チルドレンの一人である松橋も謙虚な気持ちを忘れない。
サッカーはチームスポーツなので協調性、皆で力を合わせて、同じ方向に進む大切さを学びました。また、人と人の繋がりなので、人への思いやりや言葉は、サッカーから学んできました

 そんな松橋が小嶺氏以上に感謝しているのが母親である。女手一つで兄の章太と優の2人をプロのフットボーラーに育て上げた。
母には感謝していますし、本当にすごいと思っています
長崎で一人暮らしをする母には週に1度は電話して、近況報告を怠らないという。
プロになって自分でお金を稼ぐようになって、苦労して育ててくれたんだなと親のありがたみが分かりました。自分たちに子供が生まれると、家は妻と2人で育てていますけど、母が1人で2人の男の子を育ててくれた偉大さを実感しました

サッカー一辺倒に偏らない学生生活を

 高校を卒業すると同時のプロ入りも意識したが、小嶺氏のアドバイスもあり早稲田大学進学を決断。単身で東京に出てきた当初は「不安しかなかった」と振り返る。
キャンパスまでは電車通学だったのですが、東京の路線は複雑で乗り方も分からない。友人に乗るべき電車を教えてもらって出発したところ、乗り換えで躓きました。結局、寮まで戻ってもう一度きちんと教えてもらってから出直しました(笑)
 
 大学ではスポーツ科学部でスポーツ医科学科を専攻した。
高校生の時にケガが多かったので、身体のことを勉強したかった。勉強は難しく、ついていくのに精一杯でした。何度も教授に教えにもらいに行きました。サッカーは楽しかったのですが、勉強には本当に苦労しました
 30代になっても衰えずにダイナモよろしくピッチを走り回って活躍できるのは、大学で人体運動の仕組みに関して学んできたからこその矜持もあるのだろう。
ケガをしないように予防には常に気を配っています。練習前後にしっかりとストレッチをして、練習後にもしっかりケアをしています
 
 高3の時には高校選抜に選ばれ国際試合も経験した。選抜チームの中には高校から直接プロ入りした選手も少なくない。松橋は進学する道を選んだが、大学で4年間学んでからプロ入り出来て良かったと言う。
高校からすぐにプロへ行っていたら、数年ですぐにクビになっていたかもしれません。自分にとってはサッカー一辺倒に偏らない学生生活を送れたことによって視野が広がり、勉強で苦しんだ分、忍耐強さも身につきました。大学時代に新な人脈を築けたことも大きかったです
 4年間で選手としてだけでなく、人間としても揉まれながら成長したことで、最終学年で参加したクラブチームの練習では結果を出し、プロへの道を拓いた。
 現在の松橋はベテランとしてチームを支える存在となっている。プロ1年目の大分トリニータでは、兄の章太と再び同じチームとなりJリーグ史上初となる兄弟2トップも実現させた。しかし、翌年には章太がヴィッセル神戸へ移籍、その翌年には優も甲府にレンタル移籍となる。
 はじめこそ「人見知りなところもあるので、プロとしてデビューして馴染んだチームを出たくはなかった」と当時の戸惑いを正直に打ち明けるが、次第にこのチームの力になりたいと願うようになったと言う。そしてレンタル期間2年を経た2010年にはJ1昇格に大きく貢献。翌2011年に完全移籍し甲府でさらなる激闘の日々を送ることになるのだが、2018年のヴァンフォーレは6シーズンぶりに戦場をJ2に移している。
 甲府は地方クラブの雄であり地域密着型クラブチームの成功例の一つだ。その灯を守るという重責は他のチームには存在しないものだし、選手はもちろん、フロント、スタッフ、そしてサポーターの気持ちも熱い。
これまで5年プレーしてきたJ1の舞台に戻るのがミッションなので、チーム一丸となってその目標に向かっている」と迷いのない瞳で語った。松橋自身3度目となるJ1重来へのチャレンジとなるが、継続を力とするその魂はブレることなく、フィールド狭しと走り続ける。

 

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