オリンピックの華形競技である陸上。そんな陸上競技の中で、日本国内では最もマイナーな存在が競歩だろう。競歩の歴史は古く1906年から五輪競技となっている。 知らない人が見れば、お尻を振りながら早歩きをしているように見える競歩だが、50キロ競歩は「最も過酷な陸上競技」と呼ばれるほどにハードなスポーツである。男子20キロ競歩の世界記録は1時間16分36秒で、マラソンコースを2時間40分で“歩く”ペースとなる。ちなみに今日におけるフルマラソンの世界記録は2時間2分57秒、単純に比較は出来ないが42.195kmを”歩く”のであれば超人的なスピードだ。 そんな過酷な陸上競技、競歩の第一人者として2008年北京五輪、2012年ロンドン五輪、2016年リオ五輪と3大会連続してオリンピック出場を果たしたのが長崎県諫早市出身の森岡紘一朗(もりおか・こういちろう)だ。
そこそこの選手でしかないならば、自分が一番になれる競技を探したらいい 高校1年生までは陸上の長距離選手として活躍していた森岡だが、長距離では「世界」を目指すことが難しいと考えて、高校2年生のときに当時はまだ競技人口が少なかった競歩に転向。 「自分が一番輝ける場所、可能性がある場所を探したとき」に出会ったのが競歩で、「何も根拠はなかったのですが、新しいチャンスを感じた」との理由で競歩を始めた。 「小学生の頃から漠然とオリンピック選手になりたいとの夢があって、その可能性を求めたときに競歩だと思いました。未知の世界に飛び込んでいく怖さはありましたが、あまり多くの人が取り組んでいない競技なのでチャンスが転がっている。私が高校1年生のときに競歩がインターハイ種目になり、これから発展が期待できる競技なので早い段階で取り組み始めた方がチャンスは多くあると感じました」 競歩が盛んだった石川県に出向いて指導を受け、転向後すぐに頭角を現し、2ヶ月後には九州新人大会優勝、1年後には国体を制した。 「石川県で学べたことが大きかった。何も知識がない状態で、いきなりトップレベルの指導を受けられたので、変な癖や先入観を持つことがなく、教えられたことを素直に吸収できた。そこでは日本を代表するような選手とも一緒に練習ができ、高いレベルの中に入れてもらえた」 順天堂大学に進学後は世界陸上に2度出場。大学卒業後から所属している富士通では、前述のように五輪へ3度も出場して、ロンドン五輪では50キロ競歩で7位と健闘した。
「そこそこの選手でしかないならば、自分が一番になれる競技を探したらいい」と五輪に出るという目標を定め、そのゴールに達する手段として選んだ競歩。タイミングが良かったこともあり、誰よりも早く競歩の可能性に注目して、その世界での第一人者に上り詰めた。人と同じことをしていても、成功するのは難しい。成功者には周りとは異なったユニークな考え方、独自の手法を持っている人が多いが、森岡も独特の視点で競歩の世界に入り込んだ。 「オリンピックを目指している子供は多いですけど、そのほとんどが出たいなという気持ちであり、出られるという強い気持ちを持っている子は少ないと思います」と気持ちの持ち方が大切だと説く森岡は、「私も凄い人だけがオリンピック選手になれると思っていた部分もあったのですが、実際に自分が五輪に出てみて、出るチャンスは誰にでもあるんだと感じました。その半面、競技者誰もが出られる舞台でもなく、4年に1度というタイミングもあるので、限られた人しか出られない神聖の場でもあります」と自らが経験した五輪の舞台を明かす。 「北京五輪のときは夢の舞台だったスタートラインに立てたという喜びが大きく、上位を目指す気持ちはありましたが、どこかで五輪に出たことを満足してしまいました。ロンドンでは前年の世界選手権で6位に入賞して、五輪ではそれ以上の結果――メダル――を考えたときに、この場に戦いに来たと感じました。このときは五輪に出た喜びよりも、勝負に挑む強い気持ちの方が強かったです。ロンドン以降はけがに悩まされ、体調がよくない時期も続き、リオ五輪はなんとか掴んだ舞台でした。4年間の取り組みが間違ってなかったことを再確認できたと同時に、今振り返るとまだまだ足りないものもありました」
「これから五輪を目指していく子どもたちに経験を伝えて、刺激を与えられる存在でいたい。」 31歳を迎えベテランと呼ばれる域に差し掛かったが、森岡は自身4度目となる東京五輪を目指して歩き続ける。と、同時に何年も前から競歩の普及活動と後進の指導にも力を入れており、自らのライバルに成り得る選手を育てている。 「五輪に出たことは誇れますが、自分自身が凄いとは感じません。しかし、周りの人が五輪選手として見てくれ、色々な場所に呼んでくださり、様々な経験をさせてくれることは五輪選手になれて良かったことですし、そこで自分の経験を伝えるのは五輪選手がやるべきことだとも思っています。自分自身の競技レベルを高めていくのが第一ですが、それに加えてこれから五輪を目指していく子どもたちに経験を伝えて、刺激を与えられる存在でいたい。言葉を発して、その言葉を子どもたちが素直に聞いて、吸収してくれるのは五輪選手ならではです」 故郷の諫早で長崎陸上競技協会が主催する競歩大会に協力している。2016年で7回目を迎えるこの大会には、所属する富士通陸上部のコーチやチームメートを引き連れ、地元の子どもたちの前で世界レベルの技術を伝えている。 年々、トップレベルの選手の参加も増えており、それに伴い大会のレベルも向上。2015年大会では男子1万メートルで日本新記録が誕生した。
「1回目から関わっていますが、始めの頃は長崎県を中心に九州の選手だけだったのが、年々この大会に全国各地から選手が集まっています。選手にこの大会に出たいと思ってもらえているのは大きな手応えですね。招待選手として五輪や世界大会に出た選手も協力してくれているので、子どもたちに高いレベルの本物を伝えられます。私が高校生のときに経験したように、この大会に来る子どもたちにも、まっさらな状態で本物を体感してもらいたいですね」
トップ・アスリートから直接指導を受けられる非常に贅沢な環境だが、人口の多い東京や大阪で同じような大会を開催するのではなく、地元の長崎陸上競技協会と諫早市陸上競技協会と協力しながら、まずは長崎で競歩を盛んにすることに力を入れている。 「長崎から発進していくことが大事だと思っています。長崎出身の選手だけでなく、全国の選手が長崎に来て、この場所で何かを学んで、強くなって欲しい。私が石川に行って強くなったように、今度は長崎で学んだことを全国に持ち帰ってもらいたい」 競歩選手としての森岡は石川で種を撒かれ、長崎で大きな花を開花させた。そして、今度は森岡が長崎で種を蒔き続け、その芽が全国に広まり、花が咲き始めている。地道な活動を継続することにより、森岡が先頭を歩き続けた競歩という競技は日本全国に浸透し、普及している。 競歩大会の前には、長崎の離島などから招待した子供向けに育成強化合宿も行ない、森岡は自らの経験を子どもたちに伝えてきた。 「まずは競歩という競技を知らせて、そこに可能性を感じる子供がいれば続けて欲しい。競歩でなくても、新しい分野に取り組むことで、新しい刺激を感じ、今自分が取り組んでいることとの共通点や違いを見出して、気付きを感じてもらいたい。新しいことに触れて、経験することで、選択肢や考え方の幅が広がっていくと思います」
「子どもたちには夢や目標を持って取り組むことの大切さを感じて欲しい。」 森岡は子どもたちに夢を持つ大切さ、そしてその夢に向かって努力する大切さを伝えている。 「この場から五輪選手を育てたいという気持ちを第一に持っていますが、子どもたちには夢や目標を持って取り組むことの大切さを感じて欲しい。そこまでの過程でしっかりと自分で考えながら努力していくことができたら、五輪に到達できなくても、近づいていくことはできるんです。競歩を通して忍耐力を養えます。自分自身をコントロールしながら、相手との駆け引きがあるので、ただ頑張ればいいのではなく、冷静な分析力も身につきます」 忍耐力や冷静な分析力は競歩の世界だけでなく、大人になってから社会に出たときに大きな武器となる。五輪という夢に到達できない子どもでも、競歩で培ってきた武器を元に新しい世界で成功を掴めるようになるはずだ。 オリンピアン、森岡紘一朗は競歩を通して競技の普及に努めると共に、社会に活躍する人間形成にも大きく貢献している。
Other Report 「Story」vol.17 花尾恭輔駒澤大学 経済学部商学科 3年 陸上競技部2020年度奨学生「My graduation 2020 #2」奨学生(2020年3月卒業)からのメッセージ「My graduation 2020 #1」奨学生(2020年3月卒業)からのメッセージ